つぶやき

忘れること

 私はいろいろなことを忘れます。人は歳を取ると物忘れが進むと云いますが、私の場合は社会人になった頃から、忘れることが普通です。忘れる力が強いのかも知れませんが、感覚的には”選択的記憶”をしているようにも思えます。忘れた、と云うよりも、そもそも記憶していない、と云う感覚に近いのです。

 「あ、なんかしたけど、あれってなんだったっけ?」ではなく、「こんなこと、そもそもしたことない」と感じるのですが、周辺状況から判断すると絶対やったことである、と云うことが多くあります。誤解を避けるために敢えて申し上げますが、酔っ払った時の行動を忘れる話をしているのではなく、日中の、仕事などの真面目なアクティビティの話です。これは、やったことなどの事象に限らず、人に関しても全く同様で、選択的にしか記憶していないのです。

 元々記憶容量が小さいのか。何かしらの法則で選択しているのか。記憶しているのだがどこかにしまってあって、そのインデックスが今は思い出すところにないのか。或いはコンピュータで云えばハードディスクが小さくて、揮発性メモリばかりなのか謎です。近頃はインターネットですぐに検索出来るので、忘れてしまって構わないことが多くなり、その結果忘れると云う現象もあるように思いますが、私が言っているのはそう云うことではなく、個人的な記憶の領域の話をしているので、ネット検索は何の役にも立ちません。

 でも別に困らないし、謎は謎のままで、考えてもきっと解明出来ないので、悩まないことにしています。

| | トラックバック (0)

将棋の日

 現在十一月十七日は「将棋の日」なのですが、もともと旧暦の十一月十七日は「御城将棋・御城碁」となっていました。

 将棋指しと碁打ちに、幕府から公金が支給されたのは、慶長十七年(1612)と言います。平和な江戸時代になり、将棋・囲碁が普及すると、幕府は将棋や囲碁の棋力が極めて高い者達に家禄を支給し、年に一度、旧暦十一月十七日に、江戸城内で対局をさせるようになります。これを、御城対局(御城将棋・御城碁)と呼びます。江戸初期にはあまり行われなかったのですが、元禄年間(1688~1704)になると毎年の恒例行事となり、幕末の文久元年(1861)まで続きます。将棋指し、碁打ちにとって、江戸城内で対局出来る事は、自らの存在を天下に知らしめす絶好の機会でした。

 初めの頃は、将軍以下、幕臣の見守る中でのガチ勝負だったのですが、長考の連続で見物人が飽きてしまったり、日が暮れてしまったり、勝負がつかなかったりする事が多かったため、事前に勝負をつけておいて、御前では、その棋譜を再現する、下打ち制度が採用されるようになります。そして、この御城対局の結果は、わずか二日後には名古屋まで伝わっています。

 そして、下打ち制度によって、早い時間に御城対局が終了すると、幕府役人などの愛好家が、御城対決の為に登城した将棋指し、碁打ちに指導を受ける、「お好み対局」が行われるようになります。幕府の「将棋・囲碁愛好家」は、公式の御城対局や、お好み対局を待ち望んでおり、旧暦十一月十七日、江戸城内の一角は、将棋・囲碁愛好家のたまり場となったのです。そのため、現代でも、新暦に直した十一月十七日を、「将棋の日」としているのですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

江戸の「慰謝料」

 通常、江戸の結婚は、妻側が持参金を持って婚姻します。その後、なんらかの事情で、離縁する場合、夫側から離縁を申しだすなら、妻に持参金を全額返済しなければ、離縁を申し渡せません。逆に、妻側から離縁を申しだすなら、持参金の返済を断念する代わりに、強制的に夫側から「離縁状」を取る事ができます。江戸のこの様なシステムの元では、妻側は、夫側から現代で言う「慰謝料」を取る事は、普通は出来ないのですが、江戸の江島其磧(えじまきせき)と言う方が、享保二年(1717)に書いた『世間娘気質(せけんむすめかたぎ)』と言う本に、こんな話が記載されています。

 とある女性、結婚したものの、夫が病気ですぐに亡くなってしまいます。婚家は「まだ若いから」と言う事で、百両(現代価格換算約1500万円)を添えて実家に帰してくれました。美人だったので、また、他の人に嫁ぎますが、今度は夫が河豚に当たって死にます。この時、妊娠をしていたので、婚家では子供の養育費付きで実家へ帰してくれます。次に、頑丈そのもの、と言う元気な方に嫁ぎますが、夫は遊郭に入り浸り、とうとう勘当され、またしても、婚家からお金を渡されて帰されます。

 そうなると、味をしめてしまったのでしょうか、仲人かか(プロの結婚斡旋人)に頼んで、ある質屋の病弱な跡取りと結婚すると、予想通り(?)すぐに夫は亡くなります。この時も、妊娠していたので、養育費をせしめ、種違いの子供達(この時点で何人の子持ちだったかは不明)は母親に預け、裕福な両替屋と結婚しますが、夫は商用で上方へ行き、祇園の娘と出来てしまって、江戸へ帰って来ません。両替屋から二百両(約3000万円)の手切れ金を渡されて、実家へ帰されます。次に、高齢の八百屋さんに嫁ぐと、この方も、間もなく亡くなる・・・と言う訳で、とうとう、種違いの子供を二十七人作って、この女性は、裕福で賑やかな老後を送った、と言う事です。

 でも、十五歳で初めて出産したとして、毎年、子供を産み続けても、最後の子を産んだ時は四十二歳になっています。一人の女性が二十七人も子供を産めるのでしょうか?
 
 一人の女性が二十七人も子供を産めるのか?気になったので、ギネスブックを調べてみたら、なんと、世界記録は、1725~65年、ほぼ同時代の日本の江戸中期、八代将軍吉宗公治世の享保~明和頃)の四十年間で、二十七回出産し、双子十六組、三つ子七組、四つ子四組(なぜか、一人で生まれた子がいない!)の計六十九人を産んだ、ロシアの農民フェオドール・ヴァッシュリーブさんの妻、バレンティナ・ヴァッシュリーブさんと言う方で、一人の女性が産んだ最多の記録と同時に四つ子及び双子の最多出産回数の記録保持者、なんだそうです。江戸の女性も二十七回出産しているようですが、数ではとても及ばないようで、上には上があるもんですね。

| | トラックバック (0)

新しい言葉

 岩波書店の広辞苑が10年ぶりに改訂され、約1万項目が新たに追加されるとのこと。言葉は生きています。時代と共に、読み方も使われ方も変わっていくし、新しい言葉も生まれてきます。しかし10年で新しい言葉が1万語だとすると、それはかなり大きい印象があります。ザックリ云って1年間で1000語、毎日3語の新しい言葉が生まれている計算になります。

 言葉はコンセプトなので、毎日3つの新しいコンセプトが生まれていると云うことでしょうか?それはしかし分かる気もします。新しい存在の発見(生物や物質など)は滅多にないでしょうが、新技術の発見・開発はそれなりにあるでしょうし、何よりも新しいアイデアの創出は、確かに1日2つぐらいありそうです。しかしそれはかなりの数で、それだけ新しいアイデアが生まれているとはエキサイティングです。毎日1つは新しいアイデアに触れるようにしたいですね。

| | トラックバック (0)

江戸の独楽事情

 江戸研究のバイブル「守貞謾稿」によりますと、『独楽 こまと訓ず。あるひは云ふに、陀螺の字を用ふ。独楽をこまと訓ずこと、後考すべし。(中略)(大小および心鉄の長短等種々あり 近年は心鉄を太くせり、かつ短し)(中略)また江戸親父橋(現・中央区日本橋小網町)西詰の床見世に、金蔵と云ふ者、独楽を製しうる。名工にて名高く、古くよりあるなり。金造(ママ)独楽と世に称す。また江戸、童の二人これを廻し、相当て勝負を専らとするは、嘉永二、三年(1849、50)以来のことなり。』

 『銭独楽 これもこまの一種なり。元禄(1688~1704)中、始めてこれを製す。文字銭六、七文に短き管を貫き、管中に心本(木)を通し、緒をまとひて回転の機を設く。当時、専ら娼家の宴席に幇間らこれを巡らし、巡り畢(おわ)らざる間に、三絃あるひは浄瑠璃の道行一段等を語るを興とせしこと、ある書に載りたり。土製は周り黒く、面に四文銭の背形を模し、鍮泥(ちゅうでい)をぬり、中に一管および心木あること、同前』。両掌で、心棒を回し、回転させるタイプの独楽で、この一種と思われます。

 『今制 竹独楽 竹筒の皮を去り、上下を桐板にて塞ぎ、その中央に竹心を上に緒を纏ひ、緒の余を別に竹制の穴ある物に通し、この竹を心に当て、急に緒引き解くにより回転す。けだし、筒の一方を図(省略)のごとく竪長に穿ち、回転の時風入りて、がうゝと響き鳴る。京坂、専ら祭祀の日、社頭にこれを売る。平日、稀とす。江戸にて、ごんごん独楽と云ふ。稀にあり』。円筒の竹に縦のスリットが入っていて、巻き付けた糸を引いて回すとゴンゴンと音のする独楽です。

 『叩き独楽 これまた独楽の一種なり。昔よりこれあるか、詳らかならず。江戸等にて、天保比(1830~44)童部これを弄ぶ。京坂には行はれざりし。木の挽物なり。白木のまゝ彩なし。高さ一寸五分(約5cm)ばかり。これを回転せしむるには、右(図省略)のごとき竹あるひは木の端に、木綿の細長き裁(きれ)をつけ、これを鞭として打ちたたき回らす。故にたゝきこまの名あり』。これは、現代では、ぶちゴマと呼ばれる、叩いて回す独楽です。

 『貝独楽 ばいこまの名、いまだこれを聞かざれども、余が推してこれを名とす。俗は、貝、ばいとのみ云ふなり。図(省略)のごとく、始め上半を槌にて打ちかき去り、小口を砥をもって磨し、緒をもつてこれを回転するなり。京坂の男童、貝徳と号け、貝を回し勝負をなす。(中略)賭物とするが故に、貝底に鉛をわかし入れ、その上に晒蝋をもつて、傾かざるやうにこれを埋め、表には朱あるひは青蝋をもつて平とす。多くは童の自製にあらず。店ありてこれを売る。価三、五十銭(約112.5~187.5円)より、右のごときは百文(約375円)ばかりもあり。鉛を用ひざるを、からばいと云ひ、屑とせず。江戸にては、右のごとき精製これなし。番太郎小屋にて、貝全体なるを売るのみ。一価二銭(約75円)なり。自製に上の方を欠き去り回す。江戸にても賭とすれども、行ならず。鉛・蝋など稀に用ふるのみ』。これは、現代でも民芸品店などで売られている「ベイゴマ」の原型です。

 江戸の子供の独楽遊びは、主にお正月に親しまれました。独楽はもともと奈良時代に朝鮮半島の高麗(こうらい)から伝来したと言われ、その後、神事や宮廷の儀式として行われましたが、江戸時代になると庶民の間にも広まります。江戸の独楽は、守貞謾稿にもある通り、「貝(べい)独楽」が中心で、巻貝の殻の上半分を切り取り、中に鉛や蝋などを入れて重みをつけました。やがて、独楽が商品化され、鉄の心棒が付けられるようになると、時代により、心棒を太くしたり細くしたりなどの工夫がなされます。競技(賭け)としては、当初は、回転時間を競うだけでしたが、やがて、桶などの上にゴザを敷いて、真ん中を凹ませ、回した独楽同士をぶつけ合い、相手の独楽をゴザからはじき出したり、回転を止めてしまうなどの喧嘩独楽も見られるようになります。

 独楽回し、子供の頃はよくやりましたけど、大人になってからは、まるっきりやってないなぁ。現代みたいに、娯楽があふれて、どれで遊べば良いのか、迷ってしまうようなご時世ではなく、シンプルで、それでいて奥が深いのが江戸の遊具。たまには、昔を思い出して独楽でも回してみましょうか。

| | トラックバック (0)

国会議員の給料

 我が国の国会議員の給料は高すぎる、と云う声があります。さて、どうでしょうか?私は逆にもっと高くすればいいと思うのですが、理由を説明します。給料を上げればいい人材が集まると決まったものではありませんが、それでもやはり一般的には、高い給料の方がいい人材が集まるでしょう。特に、スペシャル高額な給料であれば、流石に一定数の優秀な人材は集まるものと思われます。国会議員の給料、4倍くらいに引き上げたらどうでしょうか?同時に定数は4分の1にすれば、全体のコストは変わりません。

 国会議員の年収(歳費)は約2200万円、文書通信交通滞在費という手当が月100万円(年1200万円・無税)、立法事務費が月65万円(年780万円・会派に支給)、秘書3人までの給与に当てられる秘書雇用手当が年間約2500万円。全部足すと実質6700万円程度です。この中から政策秘書を雇ったりする訳ですが、年収2200万円と云うより、年収6700万円だがこの中で秘書から立法経費まで全て賄ってもらっている、と云う方が納税者に分かりやすいと思います。

 この総年収を4倍にすると約2億7000万円。これだけ払うと云えば、優秀なコンサルタントや経営者的人材も含めた様々な優秀な人材が、やってみるか!と国会議員になろうとしないでしょうか?なべて我が国の政治家コミュニティは、なりたい人が限られていると云うか、人材不足の感が否めないと思うんですよね。どうでしょうか?

| | トラックバック (0)

江戸期の両国界隈の地名

 葭町(よしちょう)=現・中央区日本橋人形町一丁目、三丁目を挟む地域。今の人形町交差点から江戸橋に抜ける道筋の街です。

 広小路、西両国から両国橋を渡り、東両国に至る両国のメインストリートです。江戸には、各所に「広小路」が存在しましたが、「両国広小路」と呼ばれる所です。

  (馬喰町)    │ 隅 │          
(浮世小路)    │ 田 │         
   西両国一帯│ 川 │東両国一帯    
━━━━━━━┿───┿━━━━━━━  
  西両国広小路│両国橋│東両国広小路   
━━━━━━━┿───┿━━━━━━━
   西両国一帯 │   │東両国一帯     
   横山町 米  │   │         
   (橘町)  沢  │   │         
 (田所町)   町 │   │         
(長谷川町)     │   │         
         葭町 │   │         
駿河町(小網町)│   │   北     
       (魚河岸)│   │   ↑     
─┤日├────┘       ─┼─    
  │本│神田川     │   │     
─┤橋├────┐            
        │        

 米沢町=現・中央区東日本橋二丁目両国橋西詰めの街。駿河台=現・千代田区神田駿河台一丁目と二丁目に位置する街。家康公が江戸に入った時、当時あった神田山と言う山を崩し、その土砂で日比谷入江を埋め立てて、下町一帯を築きました。神田山跡の台地は、江戸初期に、駿府(現・静岡市葵区)から江戸に移住した、家康公の家臣が居を構えたので、そのエリアを駿河台と呼ぶようになります。

 当時の隅田川、両国界隈の地図を、かなり大雑把ですが、アスキーアートで描くと、上図の様になります。あくまでも、大雑把な地図ですので、距離等はほとんど考慮していません。だいたいの位置関係を読み取っていただければ、と思います。なお、落語の中に出てくる名所地名も、( )で括って書き込んであります。「ああ、あの落語に出てくる●●町って、ここいら辺にあったんだ」なんて感じで、見て下さい。

| | トラックバック (0)

CBCC

 BIS(国際決済銀行)が、CBCCなる用語を使い始め、それに関するレポートも発行しました。CBCCとは、Central bank cryptocurrencies の略で、中央銀行発行仮想通貨、のことです。要は、日本やアメリカのような国が、紙幣の替わりにデジタル通貨を発行することです。デジタル円のような。

 現段階ではあくまでも可能性の話ですが、技術的側面、利便性の側面、金融政策との関連などなど、今後網羅的な議論がされていくことになるでしょう。CBCCと云うネーミングは今一だと思いますが、今後要注目であることは間違いないですね。

 世の中は変わって行きますね

| | トラックバック (0)

江戸の水茶屋事情

 江戸時代、「茶屋」と言うと、二通りの茶屋がありました。一つは、買って家に持ち帰り、家で淹れて飲むための、「お茶の葉」を売る店で、これを「葉茶屋」と呼びます。もう一つは、淹れたお茶を、その場、つまり自分の店舗内で飲ませるお店で、こちらは「水茶屋」または「茶店」と呼び、現代で言う喫茶店の様なものです。

 お茶の原産地は中国華南で、日本には延暦二十四年(805)、唐から輸入されたお茶の葉を、最澄(さいちょう=天台宗の開祖)が、比叡山に植えたのが最初と言われ、当時は、茶の葉を搗き、甘葛や生姜などを加えて団子状にた物を、お湯に入れて飲んでいました。粉末にした葉に、湯を加えて飲む抹茶は、建久二年(1192)、栄西(えいさい=臨済宗の開祖)が宋から持ちかえり、日本に伝えました。お茶は、鎌倉時代は薬用として飲まれましたが、室町時代になると、嗜好品として広まり、そして、応永年間(1394~1427)には、京の街角で「一服一銭の茶」と称する茶売りが登場します。一杯のお茶を一銭(一文・現代価格換算約三十七.五円。)で売ったので、庶民にもお茶を飲む習慣が広まります。

 そして、江戸時代になると、路傍に床几を出し、簡単な葦簀を差し掛けて、通行人にお茶を飲ませ、団子や餅なども売る「茶屋」が出現します。茶代はお茶一杯で、四文から十文(現代価格換算約百五十円~三百七十五円)です。それが、寺社や繁華街で、参詣者や通行人にお茶を飲ませ、休息させる「水茶屋」へと進化します。当初はお茶を出すだけで、酒や料理は出さなかったのですが、馴染み客には酒、肴なども出すようになり、茶汲女(茶屋女)の衣装も派手になり、美人の茶汲女でお客を呼ぶ店が多くなっていきます。

 やがて、水茶屋の中に、奥座敷を作って、寄合や商談の場として提供したり、茶汲女に売春をさせる様な店も出て来たので、幕府は延宝六年(1678)、茶に対して、厳しい規制を行います。新規の水茶屋の開業は禁止、従来からある水茶屋も茶汲女は一軒に二人まで、水茶屋の妻や娘が給仕する事は禁止、営業時間も、明六つから暮六つ(現代の午前六時から午後六時までと制限したのですが、効果はなく、明和年間(1764~71)には、水茶屋が増え、美人と評判の茶汲女が浮世絵に描かれ、谷中(現・台東区谷中)笠森稲荷にある水茶屋の「お仙」ちゃんを、浮世絵師の鈴木春信が描き、これが「笠森お仙」と評判になり、広瀬〇ずさん、高畑〇希さん級の、現代で言うトップアイドルとなります(個人的には、山本〇月さんの方が・・・)。

 そして、江戸川柳の他にも、「茶を五、六十杯飲んで手を握り」、せっせと毎日、目指す娘のいる水茶屋へ通い、毎日、お茶を飲み続け、五、六十杯もお茶を飲んで、やっと握手してもらえた、とか、「茶代が六文、惚れ代九十文」、わずか六文(約225円)のお茶を飲んで、九十文(約3,375円)のチップを置いて来た、なんて川柳がある通り、現代のアイドル追っかけにも負けない様な、もてない男達の涙ぐましい努力が繰り広げられたのです。

| | トラックバック (0)

プログラミング

 政府はプログラミング出来る人材を一気に多く育てるために、2020年から小学校でプログラミングを必修化するだけでなく、プログラミングを学習する少年・少女クラブを2023年を目処に1万団体設立する目標を持ったとのこと。実際にイギリスやエストニアでは、人口の1万分の1程度のプログラミング・クラブが存在し、それがプログラマー養成の基盤にもなっているとのことで、義務教育のカリキュラムの変更を待たずに、時代の要請に応えていこうとするようです。これは、とってもいい取り組みだと思います。

 最近私が思うのは、英語よりもプログラミング言語の方が大切になってきているのではないか、と云うことです。その意味で「近頃の若い者は海外志向(留学など)が弱くてケシカラン」的な論を、私は支持しません。先輩の代の英語人材数よりも、若い代のコンピュータ語人材数の方がずっと多いと思うからです。実は私も本件ではささやかな「あがき」をしておるのですが、今はまだ申し上げられません。頑張ります!

| | トラックバック (0)

より以前の記事一覧