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江戸の高田馬場

 現代では、「たかだのばば」と「田」に濁点を打って発音しますが、題名にカッコでよみがなをつけたとおり、江戸期は「たかたのばば」と発音し、濁りませんでした。

 ご存じのとおり「馬場」とは、武士が乗馬・馬術の練習や流鏑馬
(やぶさめ=馬を馳せながら矢で的を射る競技)・笠懸(かさがけ=的の背後に土を山形に築いた「あずち」と呼ばれる場所に、射手の笠をかけて遠矢を射る競技)・犬追物(いぬおうもの=犬を追いかけて、犬を傷つけないようにやじりがついていない矢で射る競技)などの馬術競技を行う場所の事です。

 幕末の天保年間(1830~44)に刊行された「江戸名所図絵」と言う本によると、高田馬場は、「竪(縦)は東西へ六町(約670m)に、横の幅は南北へ三十余間(約60m)」とあり、普段は近所の子供の遊び場でした。江戸期の高田馬場は、風景が良く、有名な寺社も多く、馬場下の姿見橋(現在の面影橋付近のようです?)はホタルの名所で、江戸初期の延宝・天和年間(1673~83)には、すでに馬場の近所に矢場や茶見世などが出来、大道芸人も大勢出る行楽地として賑わい、江戸後期には、落語「高田馬場」の噺にもあるとおり、料理屋も何軒かありました。

 高田馬場の地名の由来は、文化・文政期(1804~30)に刊行された「新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)」によると、「この辺り元広き芝野にて、越後少将忠輝卿の母公高田殿遊覧の地なりしかは、馬場となりし後もかく唱へり」、つまり、徳川家康公の六男、越後六十万石の藩主、松平忠輝の母親である高田殿が遊覧した土地だから、とあります。

 高田馬場で有名なのは、堀部(中山)安兵衛の仇討ちですね。安兵衛の武勇を聞いた赤穂藩浅野家家臣の堀部弥兵衛は、安兵衛を養子に迎え、安兵衛は、四十七士の吉良邸討ち入りにも参加します。

 江戸期の馬場は、高田の他、永田(現・千代田区永田町)、小日向(現・新宿区西五軒町)、小石川(現・文京区小石川)、釆女ヶ原(うねめがはら=現・中央区銀座)などにもありましたが、後に、武家屋敷や町人地に用途変更され、地名として残るのは、高田馬場だけです。しかし、本当の事を言ってしまうと、明治四十三年(1910)、旧国鉄の駅が出来た時、馬場から1km以上も離れているのに、「高田馬場」が駅名として採用されました。そのため、駅の近辺も高田馬場という地名となったのです。江戸の本当の高田馬場は、現・西早稲田三丁目あたりになるそうです。

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