« 春眠暁を覚えず | トップページ | ミネラルウォーター »

徳川家康の癖

 「無くて七癖」、人は色々な癖がある様です。徳川幕府、初代将軍・家康公は、少年時代から、爪を噛む癖があったそうです。精神病理学から言うと、これは精神的・肉体的な緊張をほぐそうとすると無意識に出る癖です。たいがいは成長とともに自然となおるのですが、家康公の爪噛みは大人になっても続きました。

 三河の国(現・静岡県)一帯を統一したのは、三河・松平七代目の清康(家康公の祖父)でした。大永三年(1523)、十三歳で松平当主となった清康は、先祖伝来の本拠地であった安祥城から岡崎城ヘ移り、ここを本拠地として三河全土を統一します。勢いをかって享禄二年(1529)、織田信秀(織田信長の父)を討つべく、七千の兵を率いて、尾張の春日郡へ攻め込み、森山へ陣を張ります。しかし、松平六代目を長兄の信忠と争って破れた松平信定は、裏で織田と手を結び、清康には援軍を送りません。他の松平一族も態度を鮮明にしない支族が多くありました。

 そんな時、森山の陣営に不吉なうわさが流れます。重臣の阿部定吉が松平信定と意を通じていると言うものです。それを知った定吉の息子・弥七郎は父の定吉が殺されると考え、清康の背後に忍び寄ると、背中から斬りつけ、殺害してしまったのです。清康は二十五歳で無念の死をとげ、清康軍は大いに揺れました。この異変を「森山崩れ」と呼びます。松平家に残された嫡子、広忠(家康公の父)は四歳でした。定吉は息子の罪を償おうとして、広忠を伴って、伊勢へ亡命しますが、ここから、松平家の凋落が始まります。

 天文四年(1535)、十歳になった広忠は、今川義元の協力により、岡崎城へ帰還する事が出来ましたが、その代償として、三河の領土は今川家のものとなり、西三河は織田家の占領を受けます。今川家への忠誠でやっと生きながらえている様な広忠は、織田家からの侵略を防ぐため、織田信秀と通じている水野忠政の娘、於大を嫁に取ります。ところが、嫡子、竹千代(後の家康公)が生まれた翌天文十二年、水野忠政が死に、後を継いだ信元も父にならって織田信秀と手を組みました。信元の妹を妻にしていては、今川義元の不信を買う恐れがあると考えた広忠は、於大を離縁します。それでも、織田家の西からの侵略は止みません。広忠は今川家に後ろ盾となってもらうため、交換条件として、嫡子、竹千代を人質として差し出しました。

 天文十六年、六歳の竹千代は部下に守られ、岡崎を出発し、三河湾を渡り、田原(渥美半島の内側)へ上陸、竹千代の義理の祖父にあたる田原城主、戸田康光が、今川の待つ東の駿府へ、船で送ってくれるてはずでした。ところが、内々、織田家に通じていた康光は、松平家を裏切り、船を西に向け、尾張熱田の織田領へ上陸すると、織田信秀に竹千代を五百貫(約百両、百貫と言う説も有り)で売り払ってしまいます。竹千代は、これより二年間、織田家の人質となります。

 そして、天文十八年、二十四歳になった松平家当主の広忠も、父・清康と同じように、部下の岩松八弥と言う部下に、逆恨みにより背後から斬りつけられて、殺されてしまいます。主君を失った岡崎城へ、今川義元が攻め込み、岡崎城は今川の手に落ちます。勢いをつけた今川勢は、安祥城を攻め落とし、織田信秀の庶子、信広を生け捕りにします。義元と信秀の交渉により、信広と竹千代を交換し、義元は、竹千代を駿府へ連れ帰ります。八歳の竹千代は、それから、十九歳までの十二年間、駿府で人質生活を送る事になるのです。

 家康公の爪を噛む癖は、いつ頃始まったのか不明ですが、感受性の強い少年期に、度重なる身内の惨殺に加え、自らも人質にされ、いつ処分されるかわからないと言う、不安定な身をまぎらわすためについた癖と考えられますので、大人になっても、容易に消えなかったと推測されます。

|

« 春眠暁を覚えず | トップページ | ミネラルウォーター »

つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 徳川家康の癖:

« 春眠暁を覚えず | トップページ | ミネラルウォーター »