江戸の伝言板事情
江戸川柳「迷ひ子をとらえ小判を改める」、意味、お分かりになりますか?
江戸では、通常の時もですが、特に神社やお寺の縁日、祭礼、さらには火災時
などには、たくさんの親とはぐれてしまった子供が発生しました。保護される
乳幼児ですが、だいたい三歳以上ならば「迷子」、それ以下なら「捨て子」
として扱われます。
そんな時のために、親はふだんから自分の子供に「神田佐久間町、源助店、
長兵衛倅・長吉」のように住所と氏名を書いた「迷子札」を腰紐のところに
つけておきました。前述の江戸川柳は、当時の迷子札の形状を後世に伝える、
歴史的価値がある川柳で、当時の迷子札は小判型をしていたのです。そこで、
迷子札を見てみる事を「小判を改める」と表現したのです。子供がカタコト
でもしゃべれる年頃になっていれば良いのですが、そうではない場合、この
迷子札がないと、その子はどこの誰だか、まるっきり分かりません(迷子札
に書かれている字が汚くて、判読不明という別の苦労もありました)。
当時の町奉行は、現代の警察とは違い、迷子の捜索はやってくれません。
子供とはぐれてしまった親は、死に物狂いで捜します。長屋の住民も総出で、
鉦や太鼓を鳴らしながら、「迷子の迷子の長吉やーい!」と大声で市中を練り
歩きます。江戸川柳「迷い子の親はしゃがれて礼を言い」、無事子供が見付か
った時には、親は大声を出し続けていたため、喉がかれて、探してくれた方
に言うお礼の声は、しゃがれてしまっています。
親の声がしゃがれても、無事発見されれば子供は親の元へ帰れます。しか
し、迷子になって親が見つからない子供は、迷い込んだ町の月行事(町のそ
の月の責任者)に預けられます。迷子捜索で頼りになるのは、各町の木戸番
(町々の木戸に設けた番屋)と自身番(各町内が独自に設けた番所)ですが、
そこに情報がなければ、百万都市の江戸で、行方不明になった子供を探すの
は、至難の業でした。
そこで、幕府は享保十一年(1726・八代将軍・吉宗公の治世)、新橋(現・
港区新橋)の芝口に掛札場(かけふだば)を設置しました。迷子を保護した
町の月行事が、保護している子供の人相や特徴、着ていた着物の柄などを紙
に書いて、ここに掲示するのです。ここには、行き倒れや、身元不明で死んだ
人の情報なども掲示されます。まさに、江戸の重要な伝言板です。
しかし、ここでの掲示期間は七日間と短く、さらに江戸市中で一か所では
少なすぎるため、天保十三年(1842)には、迷子専用の伝言板である「迷子石」
が湯島天神(現・文京区湯島)に設置された他、各地に「迷子石」というも
のが設けられました。湯島天神に設置された石は、高さが約二メートルもあ
る大きなもので、正面に「奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)」と書かれ、
この右側には「たつぬるかた(尋ねる方)」、左側には「をしふるかた(教え
る方)」と記され、右側には迷子を捜している人が、左側には迷子を保護して
いる人が、迷子が発生した(保護した)時の日時や状況、子供の年齢・特徴・
目印などを書いた紙を貼る「迷子情報伝言板」なのです。
「奇縁氷人石」の写真は、こちら(湯島天満宮(湯島天神)ホームページ・
上から五枚目の写真)からどうぞ↓
https://www.stroll-tips.com/yushima_tenmangu/ (クリック出来ない場合は、コピペでブラウザに貼り付け)
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