大坂の「新町遊廓」事情
『新町』とは、現・大阪市西区新町一~四丁目で、江戸の寛永年間(1624~1644)に、
文字通り「新しく開発された町」です。エリアの東部に、江戸幕府公認で、
当時、大坂随一の花街だった遊廓があり、京の島原、江戸の吉原とともに、
日本三郭と称された有名な歓楽街でした。
各地の名物を表す言い回しに、「京の着倒れ、大坂の食い倒れ」というの
がありますね。京都では着るものにお金をかけて財産を無くし、大坂は飲食
にお金をかけて財産を無くす、というこの比喩はご存知の事と思います。こ
の後、「神戸の履き倒れ、江戸の買い倒れ」と続くのですが、神戸では履物
にお金をかけて、江戸では女郎買いにお金をかけるという事です。
同じように、「京島原の女郎に、江戸吉原の張りを持たせ、長崎丸山の衣
装を着せて、大阪新町揚屋で遊びたい」というのもあります。京都の遊女は
美人で、江戸の遊女は格式が高く、長崎の遊女は衣装が綺麗で、大坂の遊女
は遊んでいて面白い・・・と言うところでしょう。若い若旦那が夢中になっ
て通うのも無理はないかもしれませんね。
大坂夏の陣の翌年、元和二年(1616)に、大坂伏見町の浪人とされる木村又
次郎という方が、江戸幕府に遊廓の設置を願い出ました。候補地となったの
は、西成郡下難波村一帯で、そこの集落を道頓堀川以南へ移転させ、寛永四
年(1627)年に新しく町割をして、市中に散在していた遊女屋を集約し、遊廓
が設置されました。
開発されたエリアは五つに別れ、メインストリート(江戸川区吉原でいう
仲之町)となる(1)瓢箪町(ひょうたんまち)には島之内・道頓堀(しまの
うち・どうとんぼり)から、一筋北の(2)新京橋町(しんきょうばしちょう)
と(3)新堀町(しんぼりちょう)には阿波座(あわざ)から、一筋南の(4)佐
渡島町(さどじまちょう)には上博労町(かみばくろうちまち)から、二筋
南の(5)吉原町(よしわらちょう)には葭原(よしわら)から遊女屋が移転し
て、新町五曲輪が形成されました。今回のお噺で、若旦那も「南地五花街を
踏み荒した雪駄」なんて言ってますね。
なお、メインストリートである瓢箪町は、遊廓開設後、遊廓の長となった
木村又次郎(前述)が、実は、豊臣秀吉の子息・豊臣秀頼の家来である戦国
武将・木村重成(きむらしげなり・?~1615)の乳母の子で、賜った「瓢箪
の馬印(秀吉の馬印として有名ですね)」を所持していたことが、瓢箪町の
町名の由来だと言います。
先ほど「新しく開発された町」と書きましたとおり、新しく拓かれた地域
の総称であった新町が、そのまま遊廓の名称となり、また、大坂城下の西に
位置することからニシや西廓とも呼ばれました。開発されてすぐ、江戸時代
初期の十七世紀後半には、すでに上記の五曲輪(くるわ)構成が定着し、新
町五曲輪年寄という役職の方の支配下になります。
廓内は、江戸吉原同様に、溝渠と板塀で囲まれ、随所に見返り柳や桜が植
えられていました。出入口は、当初は瓢箪町の西端に設置された西大門のみ
でしたが、明暦三年(1657)に瓢箪町の東端に東大門が設置された他、非常門
として五つの門が設置されていましたが、十八世紀後半には普段も開け放た
れていて、「非常門」とは、名ばかりとなります。遊廓への出入り口である
「門」が七つもあったのは、「門」が二つしかない京の島原や、「門」が一
つしかない江戸の吉原とは大きく異なります。また、郭の溝渠の外側は東に
西横堀川、北に立売堀川、南に長堀川が近接していて、それぞれ堀川の内側
にも市街が広がり、架橋も十分になされており、東隣は大坂城下の中心とな
る船場であるなど、大阪市街地に位置するというのも、市街の端に位置する
京の島原、周囲を田畑に囲まれて市街から隔離された江戸の吉原とは、大き
く異なります。これも大阪人の開放的な気質からなのでしょうか。
記録では、元禄年間(1688~1704)、すでに八百名を超える遊女がいたこと
が確認されており、明治初頭まで繁栄しました。また、長らく途絶えていま
したが、三代目・桂米朝師(帯久・上18/12/04参照)が復活させた上方落語
「冬の遊び(ふゆのあそび)」(まだお届けしてません)の舞台となる地で
もあります。
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