『菅原伝授手習鑑』とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつで、延
喜元年(901)の菅原道真の失脚事件(昌泰の変)を中心に、道真の周囲の人々
の生き方を描く、全五段の時代物で、延享三年(1746)、大坂竹本座で初演。
作者は、竹田出雲、並木千柳、三好松絡、竹田小出雲の合作です。特に、四
段目が『寺子屋』の名で独立して上演されることが多く、歌舞伎の代表的な
演目となっています。
『寺子屋』と呼ばれる四段目のあらすじは、舎人(とねり=律令制の下級
官人・貴人に従う雑人)となって、今は敵となった藤原時平に仕えている松
王丸が、手習い師匠の武部源蔵がかくまう菅丞相(道真)の一子・菅秀才の
危急を救い、故主・菅丞相に忠義を立てるため、わが子・小太郎を身代わり
にすべく、寺子屋に弟子入りさせます。菅秀才の首を討って差し出せという
時平の命令に、菅丞相の門弟だった源蔵が懊悩しているところへ、松王丸自
身が検分役となって乗り込み、源蔵に我が子・小太郎を身代わりとして斬ら
せ、その首を差し出し、時平一味の目を欺くという悲劇です。
若旦那の芝居口調の台詞は、この芝居の台詞のモジリで、「こちの
人、よう戻りゃしゃんした」というのは、源蔵の女房戸浪の台詞。「膳部の
数が一脚多い」は、松王丸が、寺子屋から帰る子供の数より、手習い机が一
脚多いので、これは菅秀才のものに違いないとわざと言い立て、小太郎を身
代わりにするきっかけにしようとする場面の「机の数が一脚多い」のモジリ。
「死に貝と生貝、風味、味わいの変わるなぞと、身代わりの赤螺や、その
手は食わぬ」も、松王丸が源蔵に言う「生き顔と死に顔は相好の変るなぞと、
身代わりのにせ首、その手は食わぬ」のモジリ。「平は豆腐、皿は鰈の焼き
魚、何とて茄子をつけなかるらん」は、松王丸が、弟の桜丸の忠義を引いて、
源蔵夫婦に自分の菅丞相親子への真情を吐露するセリフ、「梅は飛び、桜は
枯るる世の中に、何とて松のつれなかるらん」のモジリ。落ちの「女房喜べ、
せがれが親父に勝ったわやい」も、松王丸が女房千代に言うセリフ「女房喜
べ、せがれがお役に立ったわやい」のモジリです。
なお、年配のサラリーマンさんなら、一度くらいは耳にした事のある、あ
るいは自ら口にした事のあるであろう「すまじきものは宮仕え(官庁・会社
勤めなどは、気苦労が多いから、できることなら、やりたくないものだとい
う意味)」という台詞も、このお芝居から出たもので、忠義の心から主君の
息子を殺すことができずに悩み果てた武部源蔵が、宮仕えのしがらみに嫌気が差して言う台詞です。
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