江戸の木場事情
慶長九年(1604・初代家康公の治世)、江戸城本丸の建設が始まると、材木
商たちはその建築材の伐採と運搬を命じられました。同十一年に竣工すると、
それらの者に材木商の免許が与えられました。当時は江戸府内に材木置き場
がありましたが、寛永十八年(1641・三代家光公の治世)に大火があり、幕府
は防火のため、材木置き場を市中から離れた所へ移す事を決定します。それ
が深川にあった元木場です。
深川元木場に材木置き場を持った木材商は、まだ問屋・仲買等と明確に区
別されるまでにはなっていませんでしたが、延宝元年(1673・五代綱吉公の
治世)頃には、問屋を名乗る者も出てきました。これから木場材木問屋という
名称が起こります。当初、木場材木問屋は二十一軒あったのですが、商人た
ちは元木場には住んでいませんでした。それは当時、隅田川には橋が架かっ
ておらず、交通の便が悪かったためと、埋立地であるこの土地が、まだ十分
に整備されていなかったためです。
元禄年間(1680~1709・五代綱吉公の治世)になると、新大橋、永代橋と相
次ぐ架橋で交通問題が解決し、また埋め立てが推進されたことにより、材木
商たちは次第に住居や店舗をこの地に移し始めました。しかし、元木場は元
禄十二年(1699・五代綱吉公の治世)に幕府に取り上げられ、一度、猿江町
(現・江東区)に移りますが、すぐにここも公用地となったので、元禄十四
年(1701・五代綱吉公の治世)に幕府が埋め立て保修した深川築地町の土地の
一部、つまり、現在の江東区木場のあたりを十五人の材木商たちが払い下げ
を受けました。
払い下げを受けた材木商たちは、自費で土盛りをし、土手を築き、堀をめ
ぐらせ、橋を架け、町屋敷を設け、材木置き場を作りました。そして同十六
年(1703・五代綱吉公の治世)に町名を木場町と名付けたのです。この地は、
正徳三年(1713・七代家継公の治世)に町方支配となりました。
この辺りの水は、真水に少し海水が流れ込む汽水であったため、この水の
中へ材木を貯えておくと虫がつかないので、貯木に向いていたのです。さら
に、水路が縦横に発達し、交通・防火上もすぐれていたため、材木問屋とい
えば深川木場というイメージが定着していったのです。火事と喧嘩は江戸の
華というように、江戸という都市は火事が多くあり、材木の需要が絶えない
こともあり、材木問屋は繁栄を極めました。しかし、幕末になると商売の浮
き沈みが激しくなり、店を閉じて近郷に移動する者も増加し、この一帯の材
木業はいったん寂れてしまいます。
その後、江戸が東京と名を変えても、木場は一貫して貯木場であり続け、
大きな材木問屋が何軒かは存続し、東京の材木需要を
支えていました。しかし、江東区南部の埋立造成で内陸化したことにより、
大半の材木商は、新しい埋立地である現在の江東区新木場に移転しました。
江戸時代の木場の跡地の一部は、都が買収し、現在は木場公園という近隣都
民の憩いの場となっています。
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