江戸の行政上の手続き事情
現代では、いろいろな行政上の手続きは、居住地の市区町村役場へ行けば、
たいていのところ用が足ります。しかし、江戸には、現在のお役所のような
対市民向けの窓口は用意されていませんでした。江戸幕府は良い意味での
チープガバメント(小さな行政)で、現代で言うアウトソーシング
(外部委託)できるところは、すべて外部委託してしまいます。
今では、当然、お役人がやるような業務も、江戸では民間がやっていたのです。
『町役人』と書いて、何と読むかお分かりですか?これ、「まちやくにん」
と読む場合と「ちょうやくにん」と読む場合があり、読み方が違うと、示し
ているものも違うものになります。「まちやくにん」というのは、「町奉行
所」に勤務している方で、身分はお侍、今でいう公務員になります。「ちょ
うやくにん」というのは、今でいう民間人で、幕府の業務の下請けをしてい
る方になります。江戸の事を偉そうに書いている書籍でも、落語に出て来る
ような長屋の大家さんを「まちやくにん」としているものがあったりして、
本出すならもうすこし勉強しろよ、と言いたくなってしまう事があります。
もう、十五年も前の「お化け長屋(上)07/07/31」の回でも書きましたが、
江戸の「ちょうやくにん」のトップは、町年寄(まちどしより)といって、
家康公が江戸入りした時に従って来た、奈良屋市右衛門、樽屋藤左衛門、喜
多村弥兵衛の三家が、世襲で勤めました。
その下に一人で数町から十数町を担当する「町名主」という方達がいて、
この方達が、町触の伝達、人別改(戸籍事務)、訴訟の和解調停、不動産の
登記事務や家屋敷売買に関する証文の検閲など、今回お届けした一席、現代
のお役所でやるような仕事を請け負っていました。そのような業務を行って
いても、前述のとおり、身分は町人、完璧なアウトソーシングですね。
その町名主には、江戸草創期からの名主で、先祖から江戸の地に住んでい
たか、家康公の江戸入国に従って、三河(現・愛知県東部)や遠江(現・静
岡県西部)から移住してきた「草創名主(そうそうなぬし)」、寛永年間
(1624~43)までに、江戸城下町として出来たおよそ三百の町を受け持つ「古
町名主(こちょうなぬし)」、明暦三年(1657)の明暦の大火以降、急速に復
興が進んで、増えた市街地を受け持つ「平名主(ひらなぬし)」という三種
類の分類がありました。
名主さんが頂くお給料は「役料」と言って、それぞれの町内からの徴収金
(今でいう住民税のようなもの)で賄われます。名主は専業で、他の商売を
やっているわけではありませんから、この役料で、仕事上の必要経費を落と
し、自分も生活をしなければなりません。役料は、受け持つ地域の規模や大
きさ、受け持つ町数などによって異なります。江戸後期の弘化二年(1845)の
高額所得名主は、大伝馬町(現・中央区日本橋本町三丁目、日本橋大伝馬町)
の名主・馬込勘解由(まごめかげゆ)で、年収二百十二両。一両を現代価格
換算約十五万円とすると、年収は31,800,000円という高所得者ですが、最低
は麻布六本木町(現・港区六本木六丁目)の名主・与右衛門で、年収三両二
分。現代価格換算約525,000円となります。
しかし、そんな安い給与でも、家屋敷売買の際に謝礼をもらったり、沽券
状書き替えの時に手数料を取ったり、公事(裁判)や訴訟に関する書類への
町名主の加判に礼金を取ったりして、結構、懐は温かかったようです。ここ
いらへんは、お役人の現代でも、町民の江戸でも、変わりはないようで、行
政の権限が寄る所には、甘い汁がいっぱいこぼれているようです。
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