五代目・桂文楽師
五代目・桂文楽(元治元年(1864)~大正十四年(1925))。本名・増田
(後に金坂惣助の養子になったため金坂)巳之助。父は同じく落語家の
二代目・桂才賀。俗に、あんぱんの文楽、モリョリョンの文楽と呼ばれ、
爆笑派の噺家でした。
十二歳で奉公に出たのですが、商人の暮らしには馴染めず、父の才賀によ
って家に呼び戻され、桂小才と名乗り、落語の稽古を始めます。その後、三
代目・春風亭柳枝の元に預けられ若枝と名乗り、明治二十一年(1888)柳亭
傳枝と改め、さらに同年十二月に春風亭傳枝と亭号を改めます。そして、
明治二十九年(1896)年十二月に父の名を継いで、三代目・桂才賀を襲名する
のですが、柳枝の弟子なのに、江戸桂派の名跡である才賀を名乗ったことで
柳枝からクレームが来ます。これは、父の二代目・才賀(当時は才六)と
柳枝が話し合い、柳枝が折れる形で襲名が認められました。
五代目・文楽襲名の際は、柳亭小燕路、三遊亭花圓遊との間で、誰が
五代目を継ぐのかと襲名争いが起きましたが、才賀が明治三十五年(1902)
五月に、日本橋木原店で「五代目・文楽」を襲名することで決着しました。
芸風は、今回お届けした廓噺の他、旅ネタ「富士詣り(05/04/26)」などを
好んで演じました。また、弟弟子の三代目・蝶花楼馬楽(当時は初代・春風
亭千枝。後の弥太っぺ馬楽、気違い馬楽と、「モリョリョン踊り」という
珍芸を掛け合いで踊ったことで人気を博しました。
大正九年(1920)五月六日に、文楽の名跡を、翁家馬之助(これが後の名人、
八代目・桂文楽)が強引に襲名したので、桂やまとに改名しました。ところ
が、やまとは、当時、桧物町に住んでいたのですが、同じ町内にある料亭
「やま登」から、同じ町内で「YAMATO」と発音するのが重複して、紛らわし
いと苦情が来たのですが、一代限りにするからという条件で和解し、後々に
は後援するなど贔屓客となってくれました。大正十四年(1925)年四月に、再
度、名を才賀に戻しましたが、同月十九日に死去。享年六十二歳。墓所は父
と同じ芝の貞林寺(現在の葛飾区東金町・貞林院瑞正寺)、戒名は演誉大浩信士。
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