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昭和の三大名人・五代目・古今亭志ん生師

 本名・美濃部孝蔵。出囃子は一丁入り。明治23年(1890)6月28日、東京神
田の生まれ。昭和43年(1968)10月9日、イイノホールの精選落語会限りで高
座を離れ、昭和48年(1973)9月21日、心筋梗塞で没。享年八十三歳。墓所・
文京区小日向、還国寺。戒名・松風院孝誉採雲志ん生居士。
 親に孝行して、蔵の一つも建ててほしい、と言う親の命名でしたが、子供
の頃から、呑む打つの道楽を始め、小学校を中退、朝鮮京城などで小僧奉公
をしますがいずれも長続きせず、天狗連を経て、二十歳で落語家になります。
 下積み時代から貧乏の連続で、「五代目・古今亭志ん生」を襲名するまで
に十七回も改名、これは楽屋に来る借金取りから逃れるためであったと言い
ます。その改名の変遷は
1.明治43年(20歳)二代目三遊亭小圓朝門下・三遊亭朝太(前座) 2.
大正5年(26歳)三遊亭圓菊(二つ目昇進) 3.大正7年(28歳)六代目金
原亭馬生門下・金原亭馬太郎 4.大正8年(29歳)吉原朝馬 5.大正9年
(30歳)全亭武生 6.大正10年(31歳)金原亭馬きん(真打昇進)7.大
正12年(33歳)古今亭志ん馬 8.大正13年(34歳)三代目小金井芦州門下・
小金井芦風(講談へ転向) 9.昭和元年(36歳)古今亭馬生(落語復帰)
10.昭和元年(36歳)古今亭ぎん馬 11.昭和元年(36歳)柳家三語楼
門下・柳家東三楼 12.昭和2年(37歳)柳家甚語楼 13.昭和5年
(40歳)隅田川馬石 14.昭和5年(40歳)柳家甚語楼 15.昭和7年
(42歳)古今亭志ん馬 16.昭和9年(44歳)七代目金原亭馬生 17.
昭和14年(49歳)五代目古今亭志ん生
 大正11年11月、りん婦人と結婚。二女二男を設けます。楽屋でのあだ名が
「指出し奴」、命名は四代目の柳家小さん師で、相撲の「呼び出し奴」のも
じり。貧乏時代、楽屋の仲間から金を借りる、その金を借りる時の指の出し
方が語源だと言います。この極貧時代のエピソードは著書「なめくじ艦隊」
「貧乏自慢」に記されております。五代目志ん生を襲名した頃から、脚光を
浴び始め、昭和20年5月、当時の陸軍省の命を受けた松竹の手で結成された
慰問団に親友の六代目三遊亭円生師らと参加し、三か月後の終戦は大陸で迎
え、命からがら日本へ帰り、やがて、天衣無縫の語り口で、昭和の代表的名
人となりました。代表作「火焔太鼓」「黄金餅」「三枚起請」「お直し」など。
 大変、お酒の好きな師匠で、若い頃の貧乏も呑んべえのなせるところ、お
酒を飲む時は、コップで一気に引っかける方で、お酒をきゅーっと飲んでか
ら、夕飯を食べる。おちょこやとっくりでのやったりとったりは嫌いでした。
売れないころ、安い酒を飲んで、酔うために駆け出したりしていたためか、
良い酒がだめで、二級酒を水で割って飲んだりしていました。
 昭和32年12月「お直し」で芸術祭賞受賞。昭和36年11月15日、脳出血で倒
れますが、大変な生命力で、わずか一年足らずのリハビリで、奇跡的に復帰
し、新宿末広の昼席に出演。演じたのは「代り目」でした。この時の末広は
超満員で、各放送局のニュースカメラが一番後ろの立ち見の場所に並らび、
立ち見のところは押すな押すなの状態でした。昭和39年11月紫綬褒章受章。
昭和42年11月勲四等瑞宝章受章。長男・清氏が、故・十代目金原亭馬生師、
次男・強次氏が、故・二代目古今亭志ん朝師。女優の池波志乃さん(ネジネ
ジネクタイの中尾彬さんの奥さん。今、ご夫婦で「買取福ちゃん」のテレビ
CMやってますね)の祖父にあたります。
(参考図書 なめくじ艦隊・筑摩書房、貧乏自慢・立風書房 他)

 

 

 

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