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立花家橘之助

 初代・立花家橘之助(たちばなやきつのすけ。本名:石田美代。慶応二年
(1866)七月二十七日~昭和十年(1935)六月二十九日)、女流音曲師(女道楽)。
 女ながらも、そも五歳の初高座から、三十余年の今日まで、寄席芸人一流
の地位をしめ、三遊派の大看板として、よく盛名を博しつつある、立花家橘
之助が過去半生の経歴こそ、なかなかに多種多様の面白い物語があるのである。
▼私の父は石田良周(よしちか)と申して、旧幕田安の藩士でございますが、
御一新で家禄を奉還しまして、そのお金を元手に、よせばよいのに、いろい
ろの商法に手を出しましたが、お約束の士族の商法で、することなすこと何
一つうまく行きませんで、とうとう元も子も失(す)ってしまって、浅草の
中田…ただ今の二天門前に逼塞しております時、私が生まれたのでございます。
▼そのころ下谷の数寄屋町に、竹本紋栄(もんえい)さんという、義太夫の
師匠がありましたが、これが私の家の知り合いでございましたので、私は親
父に連れられてちょくちょく遊びに行きますと、紋栄さんが私を可愛がって
くれまして、ちょうど私が四ッつの時、面白半分、義太夫の橋弁慶を教えて
みますと、まだ四ッつや五つでは本当に舌が廻らないものですのに、私は口
がはきはききけて、おまけにまことに物覚えがよかったので、紋栄さんも張
り合いがついて一生懸命にいろいろ教えてくれました。
▼そんなふうだったものですから、その明くる年、紋栄さんが、近所の吹抜
き(現今の松菊亭)へ桂文治さんが出席りました時、自慢半分私を高座に出
しましたのが、そも私が芸人になる始めなので…。
▼両親は、私を芸人にするのは、もとより好まなかったのですが、何せよ前
申し上げましたとおり、さんざんの失敗で、立ちゆきませんところではあり
ましたし、当人の私が子供心に面白がっておりましたので、とうとう芸人に
することになりましたが、私の母は義太夫を好かなかったものですから、ど
うで芸人になるなら、義太夫でないものを習わせようと言って、その頃、浅
草の寺内におりました、清元の師匠で延栄(のぶえい)さんという人の所へ、
私を稽古にかよわせました。
▼それで相変わらず数寄屋町の紋栄さんのところへも、しじゅう遊びに行っ
ておりますと、そこへ亡くなりました師匠の圓橘さんが、ちょくちょく遊び
に来まして、私が吹抜きの高座へ上がったことを聞いたものですから、寄席
へ出るならわたしの前へ出たらどうだと言って、私に橘之助という名をくれ
まして、自分の弟子にして、ぶッつけ中入り前へ出すことにしたのでございます。
▼そこで、喜代八という人の三味線で、いよいよ芸人となって、はじめて出
た席が両国の立花家で、師匠の中入り前へあがって、清元を語ったあとで、
浮かれ節を演りましたが、自慢を言うようではなはだ恐れ入りますが、その
時分は年に似合わず巧者で、どうしてああうまいだろうと言って褒められた
そうです…それが今日愚に返って、すっかりまずくなってしまったのは、ま
ことにお気の毒さまなわけで、おほゝゝ…。
▼で、どこへ出ましても幸いと評判がようございまして、だんだん人気が出
て参りまして、ちょうど七つの年の十二月の下席に、浅草の雷門の中の雷名
亭という席で、子供の芸人ばかり集めて、子供演芸というもよおしがありま
した時、私がその真打を致しました。(中略)これはほんの仮りの真打でし
たが、どこへ行っても私の人気が盛んだったものですから、その明くる年八
ッつの時に、大師匠圓朝さんが真打にしてくれまして、やっぱり雷名亭で、
今度は本当の真打の初看板をあげました。(文芸倶楽部 第13巻第12号(明治40・9))
天才的な三味線の名手として知られ、寄席で活躍し、圧倒的な人気を誇り
ました。落語家ではないのに、落語の寄席の主任(トリ)を常時とり続けた
のですが、あまりの人気で、橘之助師の高座が終わると、お客がみんな帰っ
てしまい、その後に落語家が出ても、客席にほとんどお客がいない状態にな
てしまうための特例措置でした。
 六代目・朝寝坊むらく(初代・全亭武生)と駆け落ちして結婚しますが、
明治三十九年から四十年(1906~07)に、師・圓橘師と夫・むらくを相次いで
亡くし、師の夫人と二人の遺児を共に引き取り、世の賞賛を得ました。その
後、初代・橘ノ圓と再婚し、大正十三年(1924)には表舞台からは引退し、夫
の橘ノ圓と共に名古屋市中区に移ったのですが、里う馬師が言ってお
りましたとおり、昭和十年(1935)六月十日、大雨で北野天満宮そばの紙屋川
が氾濫し、転居していた京都市上京区の自宅が流され、夫と共に水死してし
まいます。享年六十八歳。墓所は神楽坂の清隆寺。法名・清心院妙橘日周大姉。
(里う馬師は、橘之助師を「明治元年の生れ」と紹介しておりますが、死亡年
と没年齢から逆算してみても、この「能書き」の冒頭に書きましたとおり、
橘之助師は慶応二年の生れになりますので、これは里う馬師の記憶違いだと
思います)
 アクシデントで三味線を演奏中に、三本の絃のうち二本が切れてしまった
が、残りの一絃だけで、三絃ある時と全く変わらない演奏をして見せたとい
う、名人芸をたたえるエピソードがある反面、一流芸能人の常として、男女
関係は派手でした。処女は初代・中村鴈治郎に捧げたといわれ、大相撲の
常陸山谷右エ門の恋では巡業先までついて行ったり、落語家との浮気も多く
(あえて名前は挙げません)、愛人として旅館を与えられた落語家さんもいる
そうです。しかし、対価(カネや仕事)のために男と付き合ったことはなく、
逆に、男に金を与えていたといいます。年を取ってからの浮気相手は、
若い前座落語家たちで、情事の翌朝、お相手を務めた前座さんに向かって
「お前気を残すんじゃァないよ(のぼせるんじゃないよ、本気じゃないよ)、
これでお湯(銭湯)にでも行っておいで」と言い、小遣いを与えていたそうです。
(三代目・三遊亭金馬『浮世断語』より)。

 寄席芸人の世界で、伝説的な人物、初代・立花家橘之助師でしたが、現在、
平成二十九年(2017)にお亡くなりになった、三代目・三遊亭円歌師匠のお弟
子さんで音曲師の、三遊亭小円歌さんが、平成二十九年十一月上席より、名
跡を受け継ぎ、二代目・立花家橘之助を名乗っておられます。愛弟子の『橘
之助という大名跡の受け継ぎ』を喜んでおられた円歌師でしたが、襲名披露
を目前に亡くなってしまったので、残念ながら、愛弟子の晴れ姿は見られな
かったのです。

 

 

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