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六代目・三遊亭円生師

【六代目・三遊亭円生】
 本名・山崎松尾(まつお)。出囃子は正札付き。明治三十三年九月三日、
大阪市西区の生まれ。数え年四、五歳のころ、夫と離婚した母親(実は義母)
と上京し、母親が寄席の三味線弾きをしていた関係で四代目・橘家圓蔵の内
輪になる。その後、母親が後の五代目・三遊亭円生(デブの円生)となる橘
家二三蔵と再婚し、五代目の義子となる。明治三十八年(五歳)ごろから豊
竹豆仮名太夫と名乗り、子供義太夫で寄席に出た。明治四十二年(九歳)体
が弱かったために、義太夫程体力を使わない落語に転向し、橘家圓童となる。
大正四年(十五歳)に橘家小圓蔵と改名、大正九年三月(十九歳)橘家圓好
で真打昇進。大正十一年二月(二十一歳)、四代目・橘家圓蔵の死去に伴っ
て、三遊亭円窓となっていた義父が五代目・橘家圓蔵を襲名したのと同時に、
三遊亭円窓と改名。さらに大正十四年一月(二十四歳)義父の五代目・三遊
亭円生襲名と同時に、六代目・橘家圓蔵を継ぎ、義父の死後、昭和十六年五
月(四十歳)に六代目・円生を襲名した。
 昭和三十五年一月に「妾馬」で民放賞を受賞、同年十一月には東横落語会
で、「首提灯」を演じ、芸術祭賞を受賞したが、その前日に同じ東横で
「文七元結」を演じ、実に見事な出来であり、師も「今年の芸術祭の大賞は
あたしのもんですよ」とまで言ったと言うが、これが見送りとなり、こんな
ものかと、翌日は、芸術祭参加でありながら「首提灯でもやりましょう」と、
急いでいたのか、十数分で降りてしまい、そそくさと他の席へ行ってしまった
がこれが大賞となった。受賞後「出来が悪かったら、この程度でも賞が取れる
のか、と言われるのがいやだ」と円生師はあまり「首提灯」を高座にかけ
なくなる。
 昭和四十八年、皇居に招かれ、昭和天皇・皇后の前で御前落語を演じた事
は有名、その時の出し物は「御神酒徳利」であった。時の新聞によると、く
すぐり(ギャグ)の部分では、昭和天皇は肩を震わせてお笑いになったとあ
る。昭和四十年(六十四歳)から四十七年(七十一歳)まで落語協会の会長
を務めたが、昭和五十三年六月(七十七歳)協会と真打ち昇進の在り方につ
いて対立し、落語協会を脱退し、一門で落語三遊協会を結成。「明治の寄席
芸人・青蛙房」「寄席育ち・青蛙房」「書きかけの自伝・旺文社」「寄席切
絵図・青蛙房」「江戸散歩、上・下・朝日文庫」「寄席楽屋帳・青蛙房」な
ど、著書も多い。火炎太鼓の号でご紹介した十歳年上の志ん生師と、大変、
仲が良く「マッチャン、コウチャン」と呼び合う仲だった。
 昭和五十四年九月三日千葉県習志野市津田沼のサンペディックホールで
開かれた落語会で「桜鯛」を演じた後、楽屋で意識不明となり、救急車で
津田沼の病院に運ばれるが、帰らぬ人となる。
師七十九歳の誕生日の日であった。この二週間前に、師が全力を注いで、自
分の芸を後世に残そうとした円生大全集の録音が終了したところであった。

https://www.youtube.com/watch?v=VMqBofqIeXg

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