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江戸の医者事情について

 古い「古今医苦知(ここんいくち)・元文三年(1738)刊」という本に、
『今の医者、月額(さかやき=男性の前頭部から頭頂部にかけて)をそり、
十徳(じっとく=小袖の上から着る表衣)を着するは、季世(きせい=末の
世)の風俗なり。古に月額をそり、十徳を着する医者はなしといへり。しか
れば古代の風うすくなりゆき、今日の利用になるゆへなるか。今日の形も古
代と同じ事なりと覚ゆるは、文盲なる事なり。此比物茂卿(荻生徂徠=江戸
時代中期の儒学者、思想家、文献学者。寛文六年(1666)~享保十三年(1728))
が『可成談(なるべしだん)=荻生徂徠の随筆集』といふものを見るに、国
初の此迄は医師の苗字を除きたるなり。宝永(1704~11)の比より苗字いで、
元禄(1688~1704)の比よりは院号にも苗字をつけて名のるよしいへり。余古
き『江戸鑑(えどかがみ)=大名・旗本などの名鑑』に見るに、医師には苗
字はなかりし。』
 とあります。江戸期のお医者さんは、頭を剃って、十徳(羽織の一種)を
着ていたのですが、このスタイルが定着したのは江戸の中期ごろ。また、江
戸の中期以降はお医者さんも苗字を名乗るようになったという事です。また、
「江戸府内絵本風俗往来(江戸の町の季節の移り変わりや武家・町家の行事
のさまざまを、300枚以上の大判挿絵を添えて、総頁434で図示した本)」
という本には、「医師の往来」として、
『医師の廻診(かいしん=回診)を、当時お医者のお見舞いといひたり。医
師に御殿医御抱医町医の別あり。図(省略)する所は、町医者見舞に出し様
なり。もし医者歩行の時は、薬籠(やくろう)と称せる薬箱を挟箱に入れて、
供人荷ふ。
駕籠に乗りて出る医者は、駕籠の内へ薬籠を入れるなり。駕丁を陸尺といふ。
医者の駕籠をかく陸尺は、陸尺中の強の者を撰ぶなり。医者の駕籠は早きを
主とすといへども、足の運び調子よく、駕籠のゆれざる様陸尺の腰にて調子
をとるとかや。夏に限り医家家の印染出せる腹掛をかけたり。又一文字の笠
は、其頃いとも高価なるものと聞へて、御殿医は徒士弐人、合羽籠荷ひ壱人、
陸尺は四人以上なり、是平生出づる所の供立なり。』
 とあります。羽織を着ていることが医者の看板だったので、当時のお医者
さんは夏でも羽織を着ていました。往診に行くときは、必ず薬持ちの供をつ
れていました。薬籠(くすりばこ)は、四方が一尺五寸(約45cm)くらいの
箱も出てきました。
薬箱を三味線入れと勘違いし、三味線入れにしては小さいと騒ぐ場面がありました
ね)で、たくさんの引き出しがついていて、いろいろな漢方薬が入れてあり、
風呂敷で包み、その上を真田紐で結んでありました。

 江戸川柳「慰(なぐさみ)に医者をするとハ怖しき」。医者になるにも、
国家資格などいらない時代、やはり、落語に出て来るような、怪しげな先生
も実在したようです。

 

 

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