八代目・桂文楽師
昭和の三大名人の一人、八代目・桂文楽師についてご紹介します。
【八代目・桂文楽】
本名・並河益義(なみかわますよし)。出囃子は野崎。明治25年11月3日、
青森県五所川原町の生まれ。明治41年、15歳で初代桂小南に弟子入りし、桂
小莚(このぶ)という名をもらう。明治43年、名古屋で三遊亭円都の門人と
なり、三遊亭小円都、大正5年、東京に戻り、翁家さん馬(後の八代目桂文
治)の弟子になり、翁家さん生で二つ目。大正6年、翁家馬之助で真打ち昇
進。大正9年、八代目桂文楽を襲名。昭和13年、落語協会へ加入。昭和29年
「素人鰻」で落語家としては初めて芸術祭賞を受賞。昭和30年、落語協会
会長に就任。昭和36年、落語家として初めて紫綬褒章を受賞。昭和40年、
勲四等瑞宝章受賞。「富久」で芸術祭賞受賞。昭和46年、第四十二回落語
研究会で十八番の大仏餅を口演中「神谷幸右衛門」と言う登場人物の名を
忘れ「台詞を忘れてしまいました。」と絶句、「いいから続けろ!」と言う
客席からの呵責の声に「勉強し直してまいります。」と言って高座を降り、
これが最後の高座となる。同年12月12日、
肝硬変で没。享年七十九歳。
上野の黒門町に居住し、黒門町の師匠、俗に『黒門町』と呼ばれる。
師の有名な新造語に「あばらかべっそん」と言うのがあり、師が生前に立
てた墓石にも刻まれている。機嫌の良いときに「どうも馬鹿なあばらかべっ
そんですよ。」などと楽屋で使っていた。師の著書「芸談・あばらかべっそ
ん」の題にもなっている。また、「べけんや」と言う新造語も作っており、
「大変なべけんやですよ。」などと言って使っていた。
高座に出る時は、どんな噺をする時も、必ず黒の紋付き袴を着用。一つの
噺を完璧に演じるため、噺の習得・演出に時間がかかり、持ちねたは少なか
ったが、その持ちねたすべてが完成された噺となっている。師の十八番ネタ
の一つとされる「富久」だが、師は噺をものにするまで、一年あまりの間、
独演会などで何回も演目としてあげながら、当日になるとキャンセルして別
の噺に置き換えていたので、評論家の安藤鶴男氏に「文楽のとみきゅうは、
今日も『富休』。」と評された事もある。短く演じる時は、やかん泥、
うまのす、松山鏡などを高座にかけた。やかん泥は師には珍しい与太郎物
である。噺の演出として、手ぬぐいではなく、ハンカチを使っていた。
その他代表作「明烏」「船徳」「鰻の幇間」など。
志ん生師が草書の芸と評されるのに対し、文楽師は楷書の芸と評され、そ
の日のお客や気分によってマクラを変えると言う事はなく、決まったマクラ
で入らないと本題に進めなかった、ベストの体調でベストの演技をする事を
モットーとし、それを実現し続けた師であり、名人と称される所以でもあろ
う。(参考図書、芸談・あばらかべっそん・筑摩書房、他)
| 固定リンク
最近のコメント