江戸のお侍さんの勤務形態
江戸では徳川将軍が絶対的トップで、すべてのお侍さんは、徳川将軍の家来と言う事になります。この徳川様の家来の内で、俸禄(ほうろく=現代での年間給与)が一万石以上の方を「大名」と呼びます。俸禄が一万石以下で、将軍に御目見え(拝謁)出来る格式のある方を「旗本」、御目見え出来ない方を「御家人」と呼びますが、旗本も御家人も、将軍直属の家来と言う事で「直参(じきさん)」とも呼ばれます。また、各大名や旗本に雇われている家来は、徳川様の家来の家来と言う事で、陪臣(ばいしん)・又家来(またげらい)と呼びます。
そして、大名と、直参の旗本は、役職を帯び、定期的に江戸城へ「出勤」します。江戸城での役職は、大きく分けると、「番方(ばんかた)」と「役方(やくかた)」に別れます。番方は主に体を使う体育会系の業務で、役方は主に頭を使う文化会系の業務です。戦国時代までは、戦の主力となる番方(戦士)が幅を利かせていましたが、平和な江戸時代が訪れると、戦が無いので、番方の出番は減り、重要となったのが、役方(事務担当)でした。
役方は、様々な部署・職種があり、とても全部をご説明する事は出来ませんので、役方の主な業務内容と勤務体系をさらっとお話しします。まず、時代劇などでも有名な老中ですが、将軍の補佐役で、定員は四~五名。月番で二~三人が江戸城に出勤します。勤務時間は四つ半(午前十時)から八つ半(午後二時)の四時間ほどです。老中に次ぐポストである若年寄は、定員は三~五名で、やはり月番で二名ほどが江戸城に出勤します。勤務時間は五つ(午前八時)から始まり、老中が帰った後で帰宅となります。奏者番(そうじゃばん)は、江戸城での儀式を統括するエリートで、特に定員の様なものは無く、江戸初期は五~八名でしたが、時代が下がるにつれ増員され、最終的には三十名ほどが、交代で江戸城に出勤しました。勤務時間は、老中と同じ四つ半から八つ半です。
大目付は、大名、旗本などの監視官、各藩への法令伝達などを受け持ち、定員は四~五名。勤務時間は、四つ半から八つ半。寺社奉行は、全国の寺院、神社の取り締まり、寺社領統括、陰陽師(おんみょうじ)などの支配を担当し、定員は四名。二人が月番で出勤します。勤務時間は、四つ半から八つ半。勘定奉行は、収税、金銭出納などを担当する、現在の財務大臣で、定員は三~五名。勤務時間は七つ半(午前四時・早!)に出勤し、自分の部署とは別の詰め所で、書類に目を通したり、同僚の勘定奉行と打ち合わせをしたり、部下と会合したりして、五つ半(午前八時)に自分の部署へ配置につきます。町奉行は、現代の東京都知事と警視総監、東京地方裁判所長、東京消防署長、東京国道管理事務所長などを兼務する多忙な職務で、定員は二名。北町奉行所と南町奉行所に一人ずつ配属となります。江戸城への出勤は、四つ(午前十時)から八つ(午後二時)ですが、江戸城での勤務が終わると、それぞれの奉行所へ戻り、訴訟や請願、罪人のお調べなどを行い、業務終了は深夜に及ぶ事もある、多忙な職務です。
対する江戸期の番方は、戦が無いので本来の役割を果たす事は(幕末までは)ほとんど無く、江戸城などの警備をするくらいの業務しかありません。それでも、「幕府五番方」と言って、「大番」「書院番」「小姓組番」「新番」「小十人組」の五つに編成され、二千人ほどが勤務していました。ちなみに「大番」は、江戸城、二条城、大阪城などの警備担当部署。「書院番」は、江戸城内の警備と将軍が外出する時のガードマンを担当する部署。「小姓組番」は、公式行事の給仕・雑用担当部署。「新番」は、将軍外出用の警備隊で、常備兵力でもあり、武器の検分役なども受け持つ部署。「小十人組」は、将軍に付き添って護衛する歩兵隊で、城内警備も担当する部署の事です。
そして、その番方の勤務態勢ですが、メインの仕事は江戸城のガードマン、警備員ですから、二十四時間体制です。そのため、三交代制になっていて、朝番は五つに出勤、夕番は四つに出勤、寝番(しんばん)は宿直になり、夕七つ(午後四時)の出勤で、それぞれ次の番の方が出勤して来るまでの勤務となります。また、寝番でも「寝ずの番」と言う訳ではなく、複数いる勤務者が交代で、休憩時間に入ったり、自分用の布団を用意して仮眠したりの、ローテーションを組んで仕事をしていました。また、この寝番のお侍さん、夜中にお腹が減っても、近所にコンビニは無いし、二十四時間営業の牛どん屋もありません。たとえあっても、江戸城を抜け出して、ちょいと夜食を食って来る、なんて訳にはいきませんので、皆さん、お弁当を持参しました。
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